東洋史人名事典(11-16世紀)

この文章は、1989年ころ刊行された、『週刊朝日百科 世界の歴史』に執筆した原稿をもとに、加筆修正したものです。現在から見ると必ずしも満足な出来ではなく、恥ずかしい部分があります。

 

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宋・神宗
1048ー85年。在位1067ー85年。北宋第6代皇帝。第4代仁宗期以来の西夏・遼の圧迫、農民の階級分化、国家組織の肥大化と財政赤字といった国難の中に19歳で即位。少壮気鋭の彼は、王安石を登用して積極的に革新政治を押し進め、財政面などでは成果をあげた。1076年に王安石を去らせて以降は親政して新法路線を引ぎ、復古的な官制改革を行った。また好転した財政で周辺民族と事を構えたがこれは概してうまくゆかなかった。

徽宗
兄・哲宗の病没により即位。蔡京ら重心に一切を任せ、自らは華麗で文化的な生活を送って「風流天子」と称された。 1122年彼は童貫の勧めにより遼を金と挟攻、燕雲十六州の一部を奪還したが、その後金との約束を違うなどした為、金軍の宋への侵攻を招いた。彼は譲位して、 自らは引退してしまおうとしたが、〈靖康の変〉で北満に連れ去られ、 年その地に生涯を閉じた。 彼の時代には、実験を握ったのが新法派の時期と旧法派の時期で政策がめまぐるしく変転したが、司法制度や財政制度を含む多くの方面で彼の時期に定着した制度が南宋にまで引き継がれた。

蘇洵
1009ー66年。北宋の文人。27歳より一念発起して勉学を始めたが、科挙に及第できず、更に発奮して読書に専念、遂に欧陽修に文才を認められ、以後文章家としての名声を確立した。彼とともに唐宋八大家に数えられて著名な軾・轍の2子を出す。

蘇轍
1039ー1112年。北宋の文人政治家。始め新法の制置三司條例司の属官となるも、のち旧法党の兄・蘇軾とともに新法に反対。王安石も彼の言により、一時は青苗法の施行を思い止まったという。しかしその直言して憚らぬ性は兄に劣らず、新法党に疎まれてしばしば左遷された。彼の文は端正ながら正義感に溢れ、父・蘇洵、兄・蘇軾とともに三蘇と称されて、唐宋八大家のうちに数えられている。

曾鞏
1019ー83年。北宋の文人政治家。太学時代より欧陽修にその文才を賞され、39歳で進士となった。長く地方官を勤めたが、その間民生に意を用いたと評価され、遂には中書舎人から翰林学士となり重用された。姻戚関係にある王安石とはもとより親しかったが、新法には反対。その法度厳謹にして整然たる散文は名高く、唐宋八大家の一人に数えられる。著に「元豊類こう」などあり。

高宗
1107ー87年。在位1127ー62年。南宋初代の皇帝。靖康の変によって徽宗・欽宗が金軍に連れ去られ、宋朝は一旦は滅びたが、欽宗の弟である高宗が南に逃れて27年即位、宋室を継いで南宋となった。彼は江南地主層の支持を得た秦桧を用いるなど、北から移って来た皇室・官僚を中心とした南宋政権を巧みに江南の地に根づかせていった。また文化人としても、その書画などが高く評せられている。

岳飛
1103ー42年。南宋の武将。農民出身でありながら対金戦などに多くの功を挙げ、若くして湖北一帯に勢力を持つ軍閥となった。常に対金強硬論を唱え、一時は金軍に奪われたベン京(現・開封)に迫ったが、講和を主張する秦桧に陥れられて毒殺された。彼は英雄として後世長く崇敬されたが、当時の南宋の国力を考えれた場合、彼の主戦論が現実的であったかどうか疑問とされる。

秦桧
1090ー1155年。南宋の政治家。靖康の変で徽宗らとともに拉致されたが、金将撻懶の知遇を得て帰国、宰相となった。岳飛ら主戦論を唱える諸将を圧迫、1138年と1142年に金と屈辱的な和議を結び、以後暫く和平を保った。ために彼は民族的英雄岳飛に対して「姦臣」という伝統的評価を得るに至るが、重税に苦しむ江南に、この和平を歓迎する声があったのも事実である。

周敦頤
1017ー73年。宋学の祖として有名な北宋の学者。役人生活の後、山東の盧山に隠遁して禅僧などしていたが、彼の著した『太極図説』『通書』などの書がその没後に朱熹に高く評価され、以降宋学(道学)の開祖として称せられた。無極而太極・陰陽・五行・男女・万物化生の5段階を表す“太極図”を用いて人間・自然の在りようを示した彼の思想には、道教や易、禅宗、華厳宗の影響がみられるという。

欧陽修
1007ー72年。北宋の文人政治家。范仲奄に始まる革新的政治文化運動“慶暦の新政”の指導的存在の1人で、その門下からは王安石らの新学・蘇拭らの蜀学の2学派が出、二程子の道学と鼎立した。彼は韓愈・柳宗元らの古文運動を引き継ぎ、『春秋』を手本とした簡潔にして内実豊かな文体で『新五代史』『新唐書』を編んだ。唐宋八大家の一。政治家としては宰相にまでなり、新法には反対した。

蘇軾
1036ー1101年。北宋の文人政治家。号・東坡。その文名は高く、日本の五山文学にも影響した。官界では旧法党の重鎮と目され、新法の募役法には、僻地に於ける官の貪利も人情であると言って反対。新法党の世には不遇で各地を廻されたが、その間にも『赤壁賦』など豪快な作品を次々と物した。当時流行の奇石収集に凝り、商業(私塩)にも投資していたという点では当時の官僚の典型ともいえる。書家としても著名。父・弟とともに唐宋八大家の一。

李公麟
1049ー1106年。北宋の書画家。蘇軾・蘇轍・米!など当代の名士と親交があった。彼は多数の作品を残したが、その中でも東晋の顧鎧之・唐の呉道玄の流れを汲む人物画や、蘇拭をして「ただ肉を画くのみならず、兼ねて骨をも画く」と言わしめた馬画をその本領とする。線条の剛直・濃淡などにより対象を質感豊かに描き出す“白描画”を大成、後代の画家に大きな影響を与えた。代表作に《五馬図》《維摩詰像》など。

完顔阿骨打
1068ー1123年。在位1115ー23年。金初代皇帝。廟号・太祖。もと完顔部の首長であったが、遼の圧政下にあった女真の他の部族を糾合して独立、1115年国号を大金として即位。拡大した領土を治めるべく、女真古来の軍隊組織である猛安・謀克制を通常の行政組織に改めて統治を図ったが、結局漢人支配は従来の州県制によった。宋とともに遼を挟攻、1123年遼の燕京(現・北京)を陥としたが、天祚帝追討中に病没した。

海陵王
1122ー61年。在位1149ー61年。金第4代皇帝。もと宗室出身の宰相であったが、人望を失った先帝を殺して帝位についた。彼は金国を完全な中国風専制国家としようとして、宗室諸王や大量の女真人大官を暗殺、かわりに漢人官僚を登用し、燕京(現・北京)に遷都して中国風の諸制度を整備した。更に国力を顧みず南宋討伐の大軍を出したが、部下の信を失い、遂に揚子江を渡ることなく叛将の手に斃れた。

世宗
1123ー89年。在位1161ー89年。金第5代皇帝。海陵王の存命中、外戚として勢力のある渤海人に推されて即位。新たに財産税を設けるなどして海陵の出兵と暴政で乱れた内政を収拾、約30年の泰平を実現したが、これと表裏をなして立国の基である女真軍戸の弱体化を来たした。彼はこれに対し、女真文字の普及を図るなど女真文化の発揚に努めたが、女真人の漢化・文弱化は如何ともなし難く、蒙古に対抗すべき軍事力を失っていった。

馬遠
南宋の画家。生没年不詳。徽宗時の画院待詔馬賁を始め、馬家は代々画をよくし、ことに彼は光宗・寧宗両朝(1190ー1224年)の画院待詔となり、同時代の夏珪とともに“馬夏”と称されて南宋院体画の中心人物となった。その作品は人物・花鳥・風景と多方面に亙るが、中でも山水画においては、風景の一部を大きくとらえる独特の構図をあみだし、彼自身“馬一角”の異名を取った。作に寂莫とした冬の釣人を描いた《寒江独釣図》など。

夏珪
南宋中期の画家。生没年不詳。寧宗時に画院待詔となり、馬遠とともに“馬夏”と並び称され、院体画の中心となった。山水画を本領とし、独特の「蒼古にして簡淡」な筆致によって江南の佳境を描いた。彼らの影響は王諤などの明代絵画や、更に日本の雲谷派・狩野派等にも及び、雪舟は「馬遠・夏珪の画、習わざるべからず」と言ったと伝えられる。代表作に、12の風景を空曠とした江面を利用して連ねた《山水十二景》など。

李元昊
1003ー48年。在位1038ー48年。西夏初代皇帝。廟号・景宗。唐代より勢力を持っていた党項族の李氏は、李徳明の代に大いに国勢を展ばし、更にその子・元昊に至って肥沃な河西方面を勢力下に収め、その生産力を背景に独立、国号を大夏として帝位に就いた。彼は漢人を利用して唐・宋風の官僚制度や州県制による地方行政組織を整備し、野利栄仁とともに西夏文字を制定して西夏200年の基を築いた。

米ふつ(クサカンムリに市)
1051ー1107年。北宋の書画家。科挙を経ず旧恩により官途につき、徽宗の寵を得て礼部員外郎にまで升る。書は王羲之の風を伝え、画においては、荒い筆致や“米点”と呼ばれる点描の効果を用いて雲烟奇幻なる江南の風景を描く“米法山水”を大成した。天才なるが故か奇行が目立ち、古服で衆人の目を引いたり、巨石を兄として拝したり、逸話にはことかかない。作に《春山烟暁図》等。子の友仁も画家として著名。

王重陽
1113ー70年。王*(吉を横に2つ)とも。金代の全真教の開祖。科挙に失敗したが、異人に出会い、自ら修業を積んで道教の一派・全真教を開いたという。彼は儒・仏・道三教の帰一を唱えたが、禅宗特に般若心経の影響が色濃く、符*・焼煉などの迷信的要素が薄い。精神修養を重視した彼の教えは、金末元初の混乱の中で人々の心をとらえて陝西・河北を中心に急速に拡がり、その形を変えつつも華北の道教の主要な一派として現代に至るまで存続している。

畢昇
出版業が官民ともに盛んだった宋代の活字印刷技術発明者。彼の名は当時の科学・技術に関する話題を集めた『夢渓筆談』に「慶暦中(1041ー48)、布衣(平民)の畢昇、また活版をなすあり」以下云々と見えるのみで経歴等は不明。同書の伝える所によれば彼は泥を膠で固めた活字を鉄板の上に松脂で固定して印刷し、従来の木版印刷より飛躍的に能率を向上させたというが、これによる印刷物は現存しない。

欽宗
1100ー61年。 在位1125ー27年。北宋第9代皇帝。1125年、金軍が首都開封に迫る中、突如父の徽宗に譲位された。翌27年和議によって金軍は一旦は北帰したが、彼は朝廷内の主戦派・講和派の調整に失敗。再び金軍の攻撃を受け、徽宗ら宗室・高官・妃嬪等約3000人及び莫大な財宝とともに北方に連れ去られ(靖康の変)、1142年の和議以降も帰国を許されずに北満の五国城(現・黒竜江省内)に没した。

陸九淵
1139ー92。南宋の儒者。号・象山。交友のあった朱熹と宋学の双璧を為す。江西を中心に一派をなしていたので、朱熹らは陸学(彼の学問)の人々を江西人などと呼んだ。理・気二元論に基づき「性即理」を主張する朱熹の学に対し、彼は専ら人の心中に万物の理が含まれるとする「心即理」の命題を唱え、思想上対立したとされる。陸学はその後朱子学に圧倒されたが、明代の王守仁に承け継がれ、陽明学を生み出す基礎となったというのが定説。だが宋代学問の系統図は、多分に明末黄宗羲の表わした『宋元学案』によっており、現実に彼らがどのような関係を取り結んでいたかは未だに明らかでない。

朱熹
1130ー1200年。南宋の大思想家で朱子学の大成者。周敦頤や二程を承け継ぎ、宇宙の原理である形而上の“理(大極)”と存在を構成する形而下の“気”による“理気二元論”を構築。この思想は四書を重視した経学、大義名分論に基づく行動規範などとともに、一大理論体系をなし、士大夫のイデオロギーとして権威を持った。彼は性格的には一言居士で面倒な部分があり、官僚としては大出世したほうではないが、数多くの弟子を出し、宋代において後世に最も影響力をもつ人間の一人となった。福建の北部を中心に学問の支持者の輪を広げた。彼の学問は南宋には禁圧される(慶元偽学の禁)など、宋代の制度に大きな影響を及ぼしたとは言えないが、明代以降、科挙を通じて圧倒的な影響力をもち、朝鮮などにも影響を与えた。なお南宋の皇帝理宗は、彼の理学から字を用いたという。

程こう・程頤
程こう1032ー85年、程頤1033ー1107年。北宋の儒者兄弟。あわせて二程という。彼等はともに周敦頤の説を継承・発展し、自然界及び人間社会の最高範疇たる“理”を物質性としての“気”と峻別し、人間性の厳しい向上を求めて「性即理」を唱えた。また新しい経書解釈を示すなど、宋代道学確立の一期を画し、朱子学成立の基礎を築いた。学風としては弟の頤の学風は理論的・分析的、兄のこうは直感的・融合的と評される。

耶律大石
1087ー1143年。在位1132ー43年。カラ=キタイ(西遼)初代皇帝・大汗。廟号・徳宗。遼の王族で官僚だったが、金軍の迫る1124年、遼朝を捨て、部下200人を率いて外蒙古に走った。その後更に金の圧迫を受けて中央アジアに遷り、ウイグルなどを従えてグル・ハーン(大汗)と皇帝を号し、即位。この西遼国はトルキスタン一帯に勢力を張り、遼の滅亡後も金朝治下の契丹人の心理的な故郷となったが、建国後僅か80年で滅びた。

梁*
南宋の画家。生没年不詳。嘉泰年間(1201ー04年)に画院待詔であったという。彼は人物・花鳥・釈道などを得意とし、細筆の体と“減筆体”の2風を持っていたが、特に後者は五代の“粗筆体”の流れを汲む一切の不要な細節を減じた簡括な筆体で、「描写飄逸なること藍よりも青し」と評された。粗闊な筆勢を持った僅かな線条で衣服を表現した《溌墨仙人図》などはその代表作であり、そこには禅宗の影響も窺える。

司馬光
1019ー86年。北宋の文人政治家。20歳で科挙に合格、エリートコースを歩む。政界では保守派の首領として王安石の新法に徹底的に反対。自ら中央の職を辞して洛陽に居り、そこで史書の編纂に専念した。こうして生まれたのが、戦国時代から五代に至る歴史を大義名分論に則り編年体で綴った『資治通鑑』である。その後旧法党が優勢となると、彼は宰相となって新法の廃止を強行。だが、北宋も彼らの時代くらいまでは党争が激しくなく、王安石と彼の政策論争は、後世に比べれば、節度あるものだった。

フビライハーン
1215ー94年。モンゴル帝国第5代の汗・元朝初代皇帝(位1260ー94年、 廟号は世祖)。中国大総督であった彼は、ハーンに即位後、肥沃な漢地に拠ってアリクブカを敗り、国号を大元、首都を大都(現・北京)として中国的国家の形成を促進。1279年には南宋を滅ぼして中国を統一、ビルマ・ヴェトナム・カンボジア・ジャワ・高麗を従え東アジアに一大勢力圏を建てた。日本への入寇もまた彼の代の出来事である。

ハイドゥ
?ー1301年。オゴタイ汗国の首領。モンゴル帝国の汗位をめぐってオゴタイ家と反目していたトゥルイ家の内紛に際し、アリクブカを応援してフビライと敵対。1269年にはオゴタイ・チャガタイ・キプチャクの3汗国の同盟に成功、 本格的にフビライと争った。所謂“ハイドゥの乱”である。1301年のハイドゥの死によって収拾に向かうが、 この乱の結果、宗家元朝の宗主権は失われ、モンゴル帝国の分裂は決定的になった。

趙孟ふ
1254ー1322年。元代の書画家・政治家。南宋末、 文教地区として有名な浙江の呉興に生まれる。宋の皇族出身で、フビライに重用され高官に昇った。画においては当時支配的であった南宋院体画に抗し、唐〜北宋画への回帰を唱道。《秋郊飲馬図》など復古調の作品をものして“元末四大家”の祖となった。また書にも秀で、書法と画法は相通ずるとして王羲之の風を伝えた行草書をよくし、その書法は“趙体”と称された。

倪さん
1301ー74年。元代の画家。山水にとくに優れ、黄公望、趙孟!など諸家を折衷して一種独特の用筆を生み出し、沈周など後世に与えた影響も大きく、元末四大家の一に数えられる。その画風は早年には精謹工整、晩年には蒼秀簡遠と評され、江南の名家の出身で、生涯官につかず、多数の古書画古器物を収集して風流な生活を送っていたが、元末に世の乱れるを見、突如家財を散じて隠遁したとされる。

黄公望
1269ー1354年。元代の文人画家、“元末四大家”の筆頭。全真教の道士でもあった。他の三家と同様に宋初の董源・巨然の薫陶を受け、更に趙孟!を学んで所謂「浅!山水」を大成。これは赭石を主色とした淡彩を基調に山頭石や山中の雲気を強調した独特の画風で、簡素なるも雄偉な筆到で江南の山河を描いた《江山勝覧図巻》などの作を残す。明末の沈周など後世への影響も大きい。画論『写山水訣』を著す。

呉鎮
1280ー1354年。 元代の文人画家。“元末四大家”の一。生前は交友少なく、一生官途につかずに孤介の清貧生活を送った。詩文・書にも長じていたが、特に山水画を以て本領とする。現存する《洞庭漁隠図》はその代表作で、湖山の間に浮かぶ一葉の扁舟を蒼茫とした筆致で描く。彼の作には「漁父図」と題するものが多く、その筆墨はいずれも淋漓淳厚、彼が範としていた巨然の風とは一線を画す。沈周・文征明らの明代絵画への影響が大きい。

王蒙
1298ー1385年。 元代の文人画家。趙孟!の外孫で、はじめその影響が濃い。また黄公望の教えをうけ、薫源、王維を学び、一家をなした。“密体”といわれる彼の画は、線は繁、点は密にしてやや技巧的ともいわれるが、頗る雄厚なものである。《青隠居図》はその代表作で、草木茂盛し濛々たる江南の風景を質感・体積感豊かに表現して新境地を拓く。詩文もよくしたが、明に入り胡惟庸のが獄おこり、坐して獄死。元末四大家の一。

アリクブカ
?ー1266年。 フビライの実弟。アリクブカの乱を起こした。1259年憲宗モンケが没すると、フビライが機先を制して大汗に即位。これに抗し、アリクブカも大汗に即位、以降両派の抗争が始まったが、肥沃な漢地を地盤としたフビライに比較的短期間の内に敗北した。これにより帝国の首都カラコルムには中国からの供給が途絶、トルキスタン方面からの輸入に拠ることとなり、続くハイドゥの乱でモンゴル帝国が分裂する契機を作った。

韓山童・韓林児
山童(?-1351年)は父、 林児(?-1366年)は子。ともに元末農民反乱軍の首領。白蓮教を背景とする山童は、叛徒劉福通に擁され、宋室の後裔を称し、元朝支配下の重税と傭役に疲弊しきった河南の民を率いて大乱をなすに至る。彼が元軍と他の反乱軍に攻め殺されると、福通は林児をたてて「宋」を復活。一時は開封を奪うが、北伐に失敗、以後統制を失い他勢力に攻められて朱元璋の下に入る。最期は一説には朱元璋に謀殺されたともいう。

郭守敬
1231ー1316年。元代の天文学者。元朝に仕え、初め諸地方の潅漑路や運河を開削・整備、1276年から勅命により暦表の作成に従事。観測器具・天文台を作り、理論計算面を担当する王恂と協力、1280年に新暦を完成し、世祖フビライより授時暦の名を賜った。これにはイスラムの影響が見られ、明の大統暦に受け継けつがれた。また彼の開発した赤道座標系による渾天儀は原理的には今日のものと同じで、旧中国天文学の最高の到達点を示す。

朱元璋(洪武帝)
1328-98年。明の初代皇帝(位1368-98年)。廟号は太祖。 安徽省の貧農の出身。紅巾の賊に入ってからは俄かに頭角を現し、他の群雄を抑えて明朝を創始。彼より一世一元の制が始まったため、元号から洪武帝ともよばれる。里甲制や魚隣図冊・賦役黄冊など、新たな制度体系をはじめた。また胡藍の獄により建国の功臣を大量粛清。丞相・六部等を皇帝の直属とするなど、中央集権を徹底させた。 彼が王朝を始めたとき、朱子学が大いに取り入れられた。

鄭和
1371ー1434年。永楽帝の命により南海遠征を行った明代の宦官。イスラム教徒。帝が燕王であった時代から仕え、即位後、太監(宦官の長)に任ぜられた。彼の遠征は計7回(一説に6回)で、うち数回はスマトラ・インドを経てペルシャ湾に到達、更にその分遣隊はメッカ、アフリカ東岸に至った。この遠征には南洋諸国との朝貢貿易、永楽帝の威信の高揚といった目的が考えられるが、海禁のため一般貿易は盛んにはならなかった。

建文帝
1383ー1402年。明第2代皇帝(位1398ー1402年)。洪武帝の孫で、皇太子であった父が病没したため皇太孫となり、洪武帝の死とともに16歳で即位。斉泰・黄子澄ら側近の議に従い、精兵を擁して地方政権化した北辺の太祖諸子の勢力削減を図ったが、1394年、その中でも有力視されていた北平(現・北京)の燕王(永楽帝)が靖難軍を称して反乱。京師南京は宦官の内通で1402年落城、建文帝はこの際自殺した(靖難の変)。

永楽帝
1360ー1424年。 明第3代皇帝(位1402ー24年)。もと燕王として北平(現・北京)に封ぜられていたが、靖難の変により帝位を纂奪、建文帝の関係者を大量虐殺した。対外政策に積極的で、ゴビ砂漠へ親征、タタール、オイラートを討って内蒙を勢力下に置き、これにより東北にも進出。またヴェトナムを直接支配、朝鮮や日本を朝貢国とするなど、国勢は大いに振るった。しかし多方面で宦官を重用、明一代の宦官の弊の端を開いた。

正統、天順帝(英宗)
1427ー64年。 明朝第6、 8代皇帝(第6代としては正統帝、位1435ー49年。 第8代としては天順帝、 位57ー64年)。幼くして即位、はじめ賢臣の補佐を受けたが、正統年間後期から雲南方面での反乱、福建のとう茂七らの大規模な農民反乱などの難が続き、北方のオイラート入寇時は土木の変で捕らえられた。その間第7代景泰帝が立ち、翌50年の帰還の後は相反目した。57年景泰帝が病没すると奪門の変を起こして帝位に復帰、天順帝となった。

李成桂
1335ー1408年。 李氏朝鮮の始祖、廟号・太祖。大地主の出身で、高麗の将として女真・蒙古・倭寇の討伐に名を揚げたが、1392年、明との対立に際し、高羅に反旗を翻して王朝を建設。国号を朝鮮、漢陽(現・ソウル)を都として諸制度を整備した。また対外関係を重視、即位後直ちに明に遣使して中国との関係確立を図った。晩年には王位継承をめぐり内紛が起こり、98年退位して上王となった。

世宗(李氏朝鮮)
1397ー1450年。 李氏朝鮮第4代の王(位1418ー50年)。長兄が無能であったため、これに代わり王となった。政治面では寺社田を減らすなど高麗時代威を振るった寺院の勢をそいだとされ、また女真を征伐して東北に徙民、ほぼ今日と同じ豆満江・鴨緑江を結ぶ国境を確定。また倭寇を討って対馬に入り、宗氏と勘合貿易を開始した。文化面においても彼の代にハングルを制定、『高麗史』を編纂するなど、李朝の最盛期を現出、「海東の尭舜」と称せられた。

太宗(李朝)
1367ー22年。 李氏朝鮮第3代の王(位1400ー18年)。 太祖建国の業を扶け、王位継承をめぐる内紛では鄭道伝・李芳蕃を排し、定宗を継いで即位。私兵の廃止、官僚制度の改革などを推進して王権の強化を図り、申聞鼓を設けて民の声を聞くなど内治に努めた。対外的にも漸く明朝より朝鮮国王に封ぜられ、日本・琉球と通交して安定化した。世宗に譲位後も上王として権力を持った。

エセン汗(エセン=ハーン)
?ー1454年。モンゴルの一部族オイラート部の首領。外蒙古を統一した父ドゴンを継ぎ、脱脱不花を汗に戴いて自らは太師として実権を掌握、オイラート全盛期を迎えた。1449年貿易問題から明に侵入、親征してきた英宗を土木堡(現在河北省)に捕らえ(土木の変)更に北京に迫ったが、陥ちず、英宗を返して退いた。以後脱脱不花を攻め滅ぼし、1453年汗位について元朝を復興するも、翌年クーデターで殺された。

沈周
1427ー1509年。 明代の文人画家。沈家は代々詩文・書画をよくしたが、彼は殊に山水画に秀で、董源・巨然を学び、中年には黄公望、晩年には呉鎮に心酔、さらに王蒙や“馬夏”など諸家を総覧して一家をなした。古人を範としたため一部の作品は情意平庸と評されるが、彼の明清絵画に及ぼした影響は大きく、明中葉以降蘇州を中心におこった“呉派”の祖とされる。山水画では《東庄図》、花鳥画では《雪蕉白鶴図》等が著名。

牧けい
生没年不詳。宋末元初の画家。我国では頗る有名であるが、中国では意外にその名を知られない。彼は山水、人物、道釈、禽鳥、竜虎、猿、鶴など多方面にわたる題材を水墨により描き、筆のみならず甘薯の絞りかすや藁筆をも使用。その斬新な画法は当時容れられず、しばしば酷評されたが、鎌倉時代から日本に伝わり、特に長谷川等伯、俵屋宗達らの水墨画に多大の影響を与えた。京都大徳寺に《観音猿鶴三幅対》なる遺作がある。

耶律楚材
1190ー1244年。 金・蒙古朝の政治家、耶律阿保機9世の孫。官僚として漢文化の教養を身につけ、金朝では官は宰相に至ったが、首都燕京落城より蒙古に仕官。漢地をすべて牧場にせよとのチンギス汗の暴論を諌め、漢人地主を保護・利用すべく説得、十路課税所を設置して蒙古の財政を強化するとともに荒れはてた漢地の回復に図った。また儒者の重用に尽力、科挙を再開するなど、元朝下における漢文化の維持に意を用いた。

文徴明
1470〜1559年。明代の書画家・文章家。祖父は元朝に、父は明朝に仕えた官僚であったが、彼は学才に恵まれず、科挙には遂に合格できなかった。しかし、絵画においては沈周とともに“呉派”二大家の一、文学では“呉中四傑”の一、そして書の方面でも明代随一と称された。特に絵画方面では黄公望・ を受け継いで“南宗”の正統を確立、多くの門人を出した。彼が78才の時に描いた《江南春》は現存する彼の山水画の代表作である。

王陽明(守仁)
1472〜1528年。明代の哲学者・政治家で、陽明学の祖。宦官劉瑾に反対したため貴州の山中に左遷されたが、そこでの思索の末、自らの哲学を確立した。それまでの朱子学の主知主義に飽き足らなかった彼は、陸九淵の思想を発展させた“心即理”を根本原理に、実践を重んずる“知行合一"、“静坐"、“致良知”などを説き、人々の心を捉えた。また政治家としても、各地で反乱鎮圧に功を上げたことが知られている。

仇英
中国16世紀前半の画家。生没不詳。漆工であった彼は、絵の才能に恵まれ、“院派”の巨匠周臣の弟子となった。はじめ宋・元の名画の臨模(模写)を通じて画技を習得、遂に繊細な筆致と歓楽的な画風によって一家をなしたが、40歳で没した。彼が一介の画工でありながら実力により名声を得るに至った背景には、当時の商品経済の発展に伴う、いわゆる「顕示的(衒示的)消費」のための美術品の需要の急増が考えられる。

李時珍
1518〜93年(?)。明末の医者で、『本草綱目』の著者。李家は代々医者で、彼も一時仕官したが、結局本草を志した。当時薬草などの分類が混乱していたのを遺憾とし、30年にわたにわたる研究の末、1898種の薬物と処方例8161を示した『本草綱目』全52巻を執筆。子の建元が万暦帝に奉り、刊行された。臨床を目的とした記述は、時珍の日常の医療活動に基づいている。本書は日本にも伝えられて、徳川時代の本草学者の聖典ともなった。

李舜臣
1545〜98年。李氏朝鮮の英雄的海将。科挙の武科より出世し、全羅左道の海軍の将となる。彼は亀甲船の建造、戦法の改革など日々海軍の強化に専念。豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)が始まると、前浦での緒戦で日本船30艘を撃破。その後も各地の海戦で日本船を次々と敗って目覚ましい戦績を上げ、日本軍に恐れられた。1598年、撤兵する小西行長と来援の島津義弘を露梁に迎撃した際、遂に戦死した。

李洸(李退渓)
1501〜1570年。朝鮮・李朝の儒学者。27歳で進士となり、諸官を歴任。慶尚道に赴任中には「紹修書院」を開設してのちの書院(私学校)隆盛の端を開いた。官を引退してからは、朱子学に没頭、『朱子書節要』『朱書記疑』等の書を著した。その説は朱子の理気説を受け継いだが、人性論においては理の働きを重視する理の一元論に近いとも言われる。彼は朝鮮のみならず、林羅山・山崎闇斎ら日本の朱子学にも多大の影響を及ぼした。
 
李贄
1527〜1602年。明代のラディカルな陽明学者。長い官僚生活の後、1580年引退して『焚書』『蔵書』などの書を著したが、儒教秩序に対する張戦者として弾圧され、遂に北京の獄中で自殺した。彼は孔子の絶対性を否定し、既成通念に盲従する士大夫・官僚を偽善者として嘲笑。軽蔑されていた恋愛文学や白話文学を真の文学として評価、更に男女平等を説いたが、その戦闘的ともいえる思想は、カッタツな筆勢と相俟って世人に人気があった。また、商人の営利活動を肯定した点は、後世この時期に中国にも資本主義の萌芽が見られたという立場の歴史学者達によって、注目された。

董其昌
1555〜1636年。明末の書画家で官人。商工業の発達した松江府(現・上海)の出身で、官は南京礼部尚書(副都の文部大臣にあたる)にまで昇った。彼は黄公望を宗とし、諸家の様式を研究して南宗画・文人画を大成、特にその画論である“尚南貶北論(南宗画を尚び北宗画を貶す)”は以後の画壇を南宗画一辺倒にするほどの影響力をもった。しかし一方、董家は裕福で高利貸を営み、郷里では民衆の焼き打ちにあった。

徐光啓
1562ー1633年。明末の政治家・学者。科挙の郷試に合格したのち、南京へ赴いてマテオ・リッチに会い、洗礼も受けた。進士となってから官僚としてのキャリアを積むかたわら、ユークリッドの『幾何学原本』の抄訳など、西洋暦数学関係の本を公刊。1629年に改暦の勅命下り、西洋天文学を用いて『崇禎暦書』の編纂を監督した。彼は熱心なキリスト教徒であり、官界における勢力を利用して、リッチ・ロンゴバルディ等の布教活動を保護した。

張居正
1525〜1582年。明の大政治家。寒門の出であったが若くして科挙に合格、政争を巧みに利用して出世し、万暦帝時代には国事を一手に処理するに至った。彼は戦争状態にあったタタールのアルタ・ハンと和して互市を再開し、地主階級を押さえて丈量(検地)を図り財政健全化をすすめ、黄河の治水事業にも成功。外民族対策、徴税システムの効率化、そして治水という伝統中国のもつ基本的な問題によく対処した。だが彼の手腕に対しては、東林党の人々を中心に、強権的だとして批判も起こった。

万暦帝
1563〜1620年。明朝第14代皇帝、廟号は神宗(位1572〜1620年)。10才で即位して以降1582年まで張居正の輔弼を受け、その間は、明は財政面・対外面とも保たれていた。張居正が没して親政を始めてからは万暦帝の奢侈や無策、官僚の党争で明朝は行政機能の不全を来し、満州族の侵入を招来。明朝の滅ぶのは彼に始まると言われるが、ある中国人の学者は、今のように中国がだめになったのは彼の治世であるとの見方を示している。

ヌルハチ
1559〜1626年。建州女真の首長で、清朝の初代皇帝。廟号は太祖(位1616〜26)。アイシンギョロ(愛新覚羅)氏に属した彼は、卓越した武才によって他の女真諸部を次々と従え、 1616年には同じ女真王朝の金の名に因んだ後金国を樹立。これを討伐しようとした明を、サルフの会戦において大敗させ、清朝の基を築いた。また彼が確立した八旗制度にも、金の猛安謀克制との共通性が見られる。
     

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